聖書の言葉

1番になるには…
マルコによる福音書9:35

「一行はカファルナウムに来た。家に着いてから、イエスは弟子たちに、『途中で何を議論していたのか』とお尋ねになった。彼らは黙っていた。途中でだれがいちばん偉いかと議論し合っていたからである。イエスが座り、十二人を呼び寄せて言われた。『いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい。』」(9:33-35)

 マルコ福音書において、聴き手が最も共感するのは弟子たちの姿でしょう。選ばれた弟子たちは、主イエスと旅を共にして、癒しの業や様々な奇跡を目撃し、主の語られる言葉を聞いてきました。しかし、そうであるにもかかわらず、彼らが互いに交わしていた議論は「誰が一番偉いか」ということでした。弟子失格!と言われてもおかしくないほど、全く情けない話です。けれども、私達も実は弟子たちのような歩みをしているのではないでしょうか。

 主イエスの話は聞いている(耳にしたことがある)、知っている(つもりでいる)。けれども、実生活において、自分と他の人とを比べるのです。人からの評価を気にするのです。
 驚くことに、主イエスは私達が一番になることを否定しておられません。むしろ、「一番先になりたい者は…」とその秘訣を教えてくださいます。「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい」(9:35)。これが私達に示されている主の御心です。私達は世の“常識”と照らし合わせてその教えにギャップを感じるかもしれません。しかし、奪い合うのではなく、比べ合うのでもなく、人に仕えることこそ主イエスの望まれる生き方です。それが地の塩、世の光となる生き方です。神に愛された者らしく愛に生きる者となりなさい、と主イエスは弟子たちを(私達を)招かれます。何よりも、主イエスご自身がその言葉通りの生き方を示してくださり、私達の歩むべき道を備えてくださいました ♰ 

金持ちは罪か? Ⅰテモテ6:8

「食べる物と着る物があれば、わたしたちはそれで満足すべきです」(Ⅰテモテ6:8)

旧約聖書のイザヤ書には軍事力を誇るバビロンという国が滅びる預言が(23章)、また、ティルスという地中海沿岸にある経済力のある貿易都市の滅びが預言されています。主なる神様は、軍事力、経済力によって神なしに生きる傲慢を打ち砕かれます。力や富による自己絶対化の罪を放任されません。バビロンやティルスの滅びを通して豊かさについて考えさせられます。

 お金は人が便利に、豊かに生きるための道具、手段です。テモテへの手紙には「金銭の欲は、すべての悪の根です」(Ⅰテモテ6:10)とあります。また、主イエスは「あなたがたは、神と富とに仕えることはできない」(マタイ6:24)と言われました。お金があればもう何も必要ない、お金さえあれば生きていけるというのであれば、それは不信仰です。富や豊かさは神様が与えてくださる祝福であることは明らかです。しかし、神なしに富を追うことは背きの罪です。お金持ちが罪なのではありません。「金銭の欲」が問題なのです。欲望は人を神様から遠ざけます。ですから私達は、「お金をください」と祈るのではなく、「必要を満たしてください」と祈るのです(我らの日用の糧を今日も与えたまえ)。世を去るときは何も持って行くことができない私達です(Ⅰテモテ6:7)。生きているときも、死んだ後も命を与えたもう命の主に今の必要を求めることが私達の祈りなのです。

祝福された貧しさ
マタイによる福音書5:1ー12

「心の貧しい人々は幸いである。天の国はその人たちのものである」(5:3)。

 マタイによる福音書に記されている第5~7章までの箇所は、主イエスが大勢の群衆と弟子たちに語られた言葉が記されており、山上の説教と呼ばれます。腰を下ろし、口を開いた主イエスはこう言われました。「心の貧しい人々は幸いである。天の国はその人たちのものである」(5:3)。
 
 主イエスはここで「謙遜に生きる人々は幸いである」と言って、人々がへりくだって生きるように勧めておられるのではありません。心の貧しい人とは、自らの力の無さに消沈している者の姿を意味します。どう評価してもそのままではマイナスの値打ちしかない貧しさです。それは私達自身の姿です。私達は家族や隣人を愛して生きていきたいと願いながら、その現実は、まことに自分勝手な仕方でしか愛することができないのではないでしょうか。

 だからこそ、主イエスが言われた言葉は、私達にとって喜びとなります。「心の貧しい人は幸いである」。主は、貧しさを抱える私達を見つめ、「あなたがたは幸いだ」と言ってくださいます。イザヤ書にある通りです。「わたしが顧みるのは 苦しむ人、霊の砕かれた人 わたしの言葉におののく人」(イザヤ66:2)。私達の貧しさを主は顧みてくださる。主イエスが、私達を価値ある者として見いだして受け入れてくださいます。私達自身の貧しさは、祝福された貧しさとされるのです。